正直、人と会う度に悔いを残してる気がしてならない。最近こればっかだ。考え過ぎなのか。けどその一言ってそれで全てが終わってしまうから 恐い。考えないより考え過ぎなほうがいい。
心の壁とは大きなものだ。“壁”よりもMind “barrier” って言葉のほうがさっぱりと自分の気持ちが反映されてる。
やっぱ話さなきゃだめなのかぁ。友達作りって1から始まるのが面倒だよね!素直に言うと。しかもそれが本当に仲のいい友人になるかなんて保証はない。むしろいずれ陰で悪口を言うどうしようもないやつの場合もある。まぁ、ぐちゃぐちゃ言ってないで話しかけろよ、って言うかもしれないけど(自分自身も)、どこか無駄な気がするのも反面、ぬぐえない。
誰でも成長のための手本になる。それは良い手本か反面教師としてか。いずれにせよ自分の成長の糧。けどそれは受け手の主体性次第でどうにでもできること。全てを良いもの、役立つもの、価値があると決めてしまえば身の回りに存在する全ては無駄じゃない。
おれの言ってることはそんなことじゃない。会話は、お互いの知識、知恵や経験値によって内容の充実さに磨きがかかるのは言うまでもない、が、会話における最後に最も大切になること。それはそこに集まる人間の人格にほかならない。おれが求めるものはそこにある。
どんな人間も無限の可能性を秘めている。もし今から100人の前で自分が経験した素晴らしい話をなにか一つ、真剣に話したとしよう。15分間。100人全員とは言わない。だが何人かの人たちは必ず何らかの感化を自分から受け、人生の進路が意識的にも無意識的にも、ほんの少し、だが確実に変わるきっかけになる。話す人間はおれ以外の誰だっていい。そうして俺たちは一人の人間が世界を変えていく“生きた証明”になっている。
おれはまだまだ大した人間じゃない。だが同時に大きな人間でもある。おれが人間性を、生命の尊厳を守る心がある限り。
だから、おれは人を軽蔑しない。話す必要がないと思う人間とあまりおれは話したくはない。読んでるあなたもそうだろう。こういうことを言うと、自分を全く理解しない人間に限って色んなレッテルをおれに貼付ける。おれはかまわない。その人たちはすでにかまわないほど遠い存在だからだ。だが他人を自分勝手なカテゴリーに無理矢理入れる前によく考えてほしい。ある種の人間たちに対して“話したくない”と思うことは全く恥ずべきことじゃないはずだ。
ここまで言ったにも関わらずおれがやること。それは“話す”ことだ。相変わらずもおれは話していくのだ。全ては互いを本当に理解するため。いや、それがたとえ“互い”ではなく一方的になってしまっても、理解しようとするために、何度もおれは口を開く。明日もあさっても。
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