教育は、1自然、2人間、3事物によって与えられるとルソーは言う。
ルソーのいうここでの“自然”は普段ぼくらが使う意味での自然とは違う。人は産まれたときから周囲の色んなことに刺激され、自身の感覚を意識するようになると、自分に感覚を与えるものを好き嫌いの感覚で求めたり避けたりするようになる。さらに適当、不適当、自分の習性が自分の感覚に刺激を与えるものを選択するようになる。こういった自身の習性や臆見によって固定化され、純粋な判断を下せなくなる変化前の状態がここでの“自然”の意味だ。
そしてルソーは、自然は人為的にはどうすることもできない、元々人が備えている性質なので、残りの2つの要素である、2人間、3事物を自然と一致させながら教育するのが最善の教育だと主張する。
2. 市民と人間
ルソーの市民と人間も一般的な意味とは違う。
市民:全体主義に生きる“社会人”のこと。
人間:個人主義に生きる“自然人”
ここでの個人主義は自分が良ければ他人を害しても良いというような自分勝手な主義のことではなく、自分の幸福と人間として生きるという事を純粋に求めていく主義だ。
この市民と人間の分別によって、相反する2つの教育形態、一般的な公共教育、もう1つは個別的な家庭教育だ。ルソーはエミールを後者の教育法で育てていく。
ルソーは言った。
“立派な社会制度とは、人間をこの上なく不自然にし、その絶対的存在を奪いさって、相対的な存在を与え、『自我』を共通の統一体の中に移すような制度である。そこでは、そこでは個人の一人一人は自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部分と考え、何事も全体においてしか考えない。”
つまりルソーは人が全体主義に陥る事を好んでいないように見える。実際、彼がエミールに施す教育は個人主義である“人間”側の個別的な家庭教育だ。彼は1人の人間が“全体の一部分”に変換されることによって、社会的強制が個人の人間性をねじ曲げる悪質な教育であると糾弾していたように思う。個人が持ちうる社会によって形成される様々な悪(ルソーはそれらを持ってしまった人を“世論の奴隷”と呼んだり批判している)が育まれる環境であると言っていると思う。
生命を最重要視するということは、個人と全体(組織、社会)の両方を平等に重要視することである。従って、全体の中の個の埋没、個のための全体の犠牲といった既成の問題は起きなくなる。この環境を作るためには、真に生命を尊厳視する教育と宗教の存在は不可欠である。教育がその片翼を担う以上、エミールがこの世界に存在する重要書の1つであることは疑いないはずだと思う。
ちなみに、ルソーは個別的な家庭教育の書としてエミールを出版したが、もう片方の教育形態である“一般的な公共教育”についてはこう言っている。
“公共教育の観念を得たいと思うなら、プラトンの“国家論”が読むといい。これは書物を表題だけで判断する人が考えているような政治についての著作ではない。これは今までで書かれた教育論の中で1番優れたものだ。”
もう国家論も買ってしまったので、これもいつか感想を書く時が来るだろう。
結びにもう1つ彼の言葉。
“人生の良いこと悪いことにもっともよく耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。だから本当の教育とは、教訓を与えることではなく、訓練させることにある。”
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